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生死の覚悟 (新潮新書)
本, 髙村薫/南直哉
によって 髙村薫/南直哉
4.8 5つ星のうち 8 人の読者
ファイルサイズ : 19.11 MB
内容紹介 「師と出会ったことで、不信心についての私の苦がいくらか薄らいできているのを感じる。この歳でまた少し生まれ変わったようなものである」(髙村薫) 「同時代に髙村さんがおられることは、今の私には救いとしか言いようがない」(南直哉) 「仏教」を疑い、実存の根拠を問う、作家と禅僧の対話。 きっかけは、小説だった――。 2009年に刊行された、髙村薫の小説『太陽を曳く馬』。この作品は、都内の禅寺で起きた不可解な「事故」をめぐって、髙村作品ではお馴染みの刑事・合田雄一郎が禅僧たちと対峙。仏教や道元、そしてオウム真理教に至るまで、「捜査」の域を越えた「宗論」を繰り広げながら「事故」の顛末を追う、というもの。 この作品の存在を同門の友人から知らされた、「恐山の禅僧」南直哉師いわく、「道元禅師と修行僧が登場する小説を最初に読んだときは、どれほどの資料を読み込み、どこまでの知識を蓄えたのか見当もつかず、軽い恐怖心さえ覚えた。この驚くべき準備の上に、細部まで研ぎあげた文体と論理が屹立する、どこか神殿を思わせるような作品」(『生死の覚悟』「悲しみの中に立ち続ける」より) 南師が切望し、2011年1月25日、両者が初めて顔を合わせる。 それから7年後の2018年9月13日、ふたりは再会する。 このふたりの七年越しの対話をまとめたのが、本書『生死の覚悟』です。いかにして仏教と出会ったのか、信心への懐疑、坐禅の先にあるもの、『超越と実存』について、宗教家の条件、ふたつの震災とオウム真理教など……話題は多岐にわたり、「実存の根源的危機が迫る時代に、生死の覚悟を問う」という内容になっています。 タイトルは『生死の覚悟』と書いて、「しょうじのかくご」と読みます。「生死」と書いて、「しょうじ」。 『岩波仏教辞典 第二版』では、「生死(しょうじ)」を 「生まれることと死ぬこと。また、いのちあるものが、生まれることと死を繰り返すこと(略) 仏典においても、生死の連続は苦と捉えられており、さらに、仏教においては、生死の繰り返しは、我々人間の煩悩に起因すると考えられたため、煩悩を滅することにより、生死の連続からの解放が可能になるとされた。 このように生死とは、迷いのただ中にある我々自身のあり様を比喩的に表現したものでもある。生死の超克は苦の終焉であり、それは涅槃と等価となり、仏教の目指すべき目標とされる」と説明しています。 幼少期から「私とは何か? 死とは何か?」を考究し続けてきた南直哉師と、「長く生きるうちに、さまざまな死に出会ってきた」と語る髙村薫氏が、「仏教」を疑い、「生死」を問う――それが本書『生死の覚悟』です。 【目次より】 生死に出会い、惑う――髙村薫 第一章 生命と死の門――2011年1月25日 黒衣のダース・ベイダー/ふたつの「サンガ」/「紅顔の修行僧」への違和感/近代理性で〝仏〟に迫る/〈生命〉という到達点/阪神大震災と「死の門」/生死の構造 第二章 坐禅の先にあるもの――2011年1 月25 日 オウムに決定的に欠けているもの/懐疑の訓練/「葬式仏教の崩壊」から始まること/信心というハードル/縁起する実存/作家と禅僧の間にある〝一線〟/これからの僧侶に必要なこと/仏教の可能性と復興の必要条件 断章I 道元がたちあらわれるところ――髙村薫 断章II 運動する『正法眼蔵』――南直哉 断章III 空海が現代人ならと想像させる書――南直哉 断章IV 信心不問の仏教史――髙村薫 第三章 信心への懐疑――2018年9月13日 「住所不定住職」/「仏教の突破」/究極の宗教論/「人ではなく、神を信じなさい」/私の原点/「信じる」への違和感/「最初の人」と「次の人」/「悪人」という自覚 第四章 生死の覚悟――2018年9月13日 震災文学の決定版/生死の覚悟/自己からの逃走と宗教への接近/自己であることの負担に耐え続ける/池の奥底にある問い/南海トラフ地震/宗教家の条件/僧侶のある苦い経験/ふたたびオウム真理教について/終わりなき振り子運動/救世主になろうとした人/空海が現代に生きていたら……/自己を解体するために自己を保つ/「お前のやっているのは、仏教ではない」/「信じる」という主題 悲しみの中に立ち続ける――南直哉 内容(「BOOK」データベースより) ある作品を媒介に作家と禅僧が出会い、七年越しの対話が始まった。信心への懐疑、坐禅の先にあるもの、震災とオウム…はたして仏教は、人生のヒントとなるか。実存の根源的危機が迫る時代に、生死の覚悟を問う。 商品の説明をすべて表示する
ファイル名 : 生死の覚悟-新潮新書.pdf
生死の覚悟 (新潮新書)を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
髙村薫さんは初期の『リヴィエラを撃て』とか『マークスの山』などは楽しんで読ませていただいたのですが、そのごすっかりご無沙汰しておりました。その時の印象では、とにかく描写が微に入り細を穿つ性質のもので、その道なり街なりを本当に歩いているような気にさせられるのが非常に特異な作家だなぁというのが感想でした。その後随分宗教、それも仏教に傾斜していかれていることは存じておりましたが、読む機会がありませんでした。今回南直哉さんとの対談が出版されましたので購入した次第です。それにしてもこのお二人がこんなに意気投合してしまうとは驚きですね。直哉さんのお書きになったものは何冊か読ませていただいていますが、あの直哉さんと(悪い意味ではありませんよ)こう意見の合うひとが、しかも人気作家だというのにはびっくりでした。ただ、このお二人の対談を読んでいると、仏教をかなり極端なかたちで捉えているのが気になるというか、少し危ういものを感じたのでそのあたりの感想を失礼を承知で書かせていただきます。まず第一点。お二人にとって仏教は「自分とは何か」「死とはなにか」という問題を追求する道であり手段であると仰有いますが、お寺がもっと穏やかに地域文化の交流の場であったり、伝統文化の担い手であったりしてどうしていけないのでしょうか。たしかに仏教には「心の病院」としての性格があり、これは歴史的仏教になるほど強いことは仏教を勉強した者のひとりとして理解しておりますが、社会的な存在としてのお寺のあり方を頭から否定してしまっては、そもそも教団としても仏教が成り立たなくなってしまいます。第二点。おふたりは「信じる」ことができないことを前提に話を進めていらっしゃいますが、これはかなり特異な視点であると思います。わたしは世の中の平均よりやや熱心な大乗仏教徒(天台宗)ですが、上手く写経ができた時は嬉しいし、新しい気に入ったお数珠が手に手に入ったら嬉しいし、お不動様や観音様の前ではごく自然に手を合せて、時間が許せばお経を上げたりします。それに特に抵抗はありませんし、世の中の多くの仏教信者はみんなそうなのではないでしょうか。ご自分達の特殊な立場、見方を少し強調しすぎていらっしゃるのではないかと思いました。第三点。これは重要なことですので少し長くなるのをご容赦ください。このおふたり、「輪廻転生」という考え方を少し軽く見過ぎていらっしゃるのではないでしょうか。「輪廻転生」という考え方はバラモン教や一部の沙門宗教の専売特許ではなく、仏教発生当時のインド亜大陸では当り前の考え方で、仏教も当然のようにそれを前提として始まりました。いかにしたら業を滅して転生の輪から抜け出ることができるかというところから仏教はスタートしたのではなかったのではないのですか。釈尊はこの世の中の全ての存在は縁起によって生じた仮設(けせつ)であると断じました。するとそこで問題になるのが、では転生していく本体は何か、因果応報の当体はなにかといった問題になります。つまり輪廻における連続性は何かという問題なのですが、この問題に明確に答えたひとはいないのではないでしょうか。瑜伽行唯識派が「アーラヤ識」といった仮説を立てるのもその疑問に答えることが目的だったのだと思います。ただし、こういった考え方をあまり推し進めるとアートマンという考え方に接近していき、仏教のアイデンティティの問題になります。つまり単純な問題ではないんです。直哉さんは「輪廻転生は仏教の諸行無常に反する」と何度も発言されており、さらに本書では「無常無我の原則からして、私は輪廻の主体を認めるような教えを仏教として受け入れることはできない」と大見得をきっています。前者の発言は仏教の歴史的経緯を無視した発言ですし、後者の発言に至ってはいまさら何をいっているの?というのが正直なところです。仏教が北伝経路に乗って中国に入りますと中国の伝統思想によって修飾されます。つまり祖霊崇拝や氏族意識です。これがわが国にきますと、さらにわが国伝来のアニミズムに修飾されます。そのため「輪廻転生」はあまり表に出なくなるのですが、「輪廻転生」という考え方抜きの仏教はあり得ません。ちなみに一言しておきますと、こうした修飾を仏教の堕落であるなどと簡単にいうひとがいますが、そうした人たちは祖霊崇拝や素朴なアニミズムを低級な思想と考える一神教的考え方(セム型一神教と名指しで言ってもよい)に毒された人たちだと思います。キリスト教でもイエスによってカソリックが作られたと思う人はいないでしょう。宗教とは伝播していった地方の地場思想と微妙に混交しながら新しい形を作っていく。当り前のことだと思いますが、違いますか?という訳で、お二人の大変気の合った掛け合いについては楽しんで読ませていただいたのですが、ところどころ「ちょっと待てよ」といいたい部分があったことも事実でした。話題の本なのでお勧めしたいところではあるのですが、仏教について普段あまり親しんでいらっしゃらない方が、「これが仏教だ」と思ってしまわれるのは危険であると思い、少し長い文章を書かせていただきました。
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